第15号「四王寺山の三十三石仏」
育成団体:四王寺山勉強会
江戸時代後期、博多で洪水や大火事、流行り病などの凶事が続くことがありました。そこで、観音菩薩のご利益にあやかろうと博多の人々が思い立ち、宇美・太宰府の人々が協力して四王寺山一円に西国三十三ヵ所観音霊場にならった石仏めぐりの札所がつくられたといいます。
昭和初期には千人参りもおこなわれるなど、盛んに参拝され、現在でもお参りする人々の姿を見ることができます。
石仏建立の物語
江戸時代後期(寛政年間)、博多で洪水や大火事、流行り病などの凶事が続くことがありました。このような状況のなか、姿を自在に変えて人々を救済する観音菩薩の御利益にあやかろうと、博多の浜口町などの主だった人々が思い立ち、そこに宇美・太宰府の心ある人々も協力して、西国三十三ヵ所観音霊場にならった石仏めぐりの札所が宇美町・太宰府市・大野城市にまたがる四王寺山一円につくられたといいます。その建立は、順路を含めた山林の開拓など諸々困難を越えての大事業だったと伝えられています。
三十三石仏のこれまでといま
江戸時代に置かれた四王寺山三十三石仏は、あまり記録はありませんが、昭和初期の観光案内パンフレットに紹介され、千人詣りもおこなわれるなど、一時期は盛んに参拝されていました。
現在でも、さい銭や花がお供えされており、三十一番札所・聖観音では、「子どもを守ってくれる仏様」として家族連れでお参りしている姿を見ることがあります。
一番札所・如意輪観音座像
左側が当初に建立された像で、台座に「太宰府 柴田市次」と刻まれています。右側の像は昭和の初めに真龍雲寺の堂主によって祀られたものです。
二番札所・十一面観音立像
岩場に守られ損傷が少なく、頭上の十一面もよく見ることができます。この場所からは眺めがよく、南には耳納連山の山影を見ることもできます。
三番札所・千手観音立像
三十三石仏の中で唯一の磨崖仏(岩肌に彫られた仏像)。
像の左に刻銘があり、寛政12(1800)年7月に博多浜口町の立石亦六という人物が寄進したことが記されています。
三十三番札所・千手観音立像
霊場の結願札所は四王寺集落の中の見渡せる高台にあり、台座には、太宰府の地名・「連歌屋」と刻まれています。