第9号「苅萱(かるかや)の関跡とかるかや物語」


育成団体:かるかや物語を伝える会

 太宰府市坂本の関屋交差点のあたりには、中世に「苅萱の関」という関所があったといわれています。また、この苅萱の関を舞台とした伝説、苅萱道心と石童丸親子の悲しい物語が全国的にも知られています。
 苅萱の関跡と、苅萱道心・石堂(童)丸の物語を伝えていきます。

※1.出典や地域によって、人物名や物語の内容が若干異なります。
※2.石堂丸については「石童丸」とも表記されますが、博多や太宰府では「石堂丸」と表記されることが多いことからこの表記を使用しています。

苅萱の関とその位置
 太宰府市坂本の「関屋」の交差点の付近にあったと伝えられる関所のことです。関所の正確な場所や詳細はわかりませんが、文献史料や絵図から関屋の鳥居あたりとみられています。
 関の記述については、菅原道真が大宰権帥として赴任した際に詠んだ歌に登場します。文明12年(1480)には、連歌師宗祇が『筑紫道記』に苅萱の関についての記述と和歌を残しています。また、豊臣秀吉が九州征伐に来た際に関の記述がみられますが、この時には「苅萱の関跡」となっており、すでに関所は機能していなかったことがわかります。江戸時代には、関屋は太宰府天満宮参詣道と日田街道が合流する場所となり、人の往来も多く賑わいをみせていたようです。また、江戸時代の絵図に「苅萱関跡」が紹介されているほか、明治期から昭和初期には観光案内や絵はがきにもみられ、太宰府の観光名所にもなりました。
 かつては石堂丸の姉・千代鶴姫の墓とされる塚があり、その塚の場所に「苅萱の関跡」の看板が建てられましたが、現在は旧道沿いに石碑が建っています。

太宰府におけるかるかや物語
̶ 苅萱道心と石堂丸の悲話 ̶
 苅萱の関の関守であった加藤左衛門尉繁氏(後の苅萱道心)は、花見の席で桜が散ったことに無常を感じ、子を宿した妻(千里)と娘(千代鶴)を残して出家し、苅萱道心として高野山で修業に励みます。
 残された妻は、繁氏の出家後に生まれた石堂丸とともに高野山を訪ねました。しかし、高野山は女人禁制のため、石堂丸が一人山に入り父を捜します。
何日もかけて歩き捜し続けると、ある日一人の立派な僧に出会います。この僧こそ実の父である苅萱道心でした。道心は石堂丸の話を聞き、彼が自分の子であると気づきますが、今は世を捨て仏門に入った身であることから、父だと名乗ることはできず、父は亡くなったと伝えます。石堂丸はやむなく麓の宿にもどると、母は長旅の疲れで亡くなっていました。また、筑紫に帰ると姉の千代鶴もすでに亡くなっていたのでした。
 身よりのなくなった石堂丸は、以前に出会った道心を訪ねて再び高野山に上がりました。そして弟子入りし、修業に励みます。
 石堂丸は苅萱道心を父とは知らずに修業に励みました。苅萱道心もまた石堂丸に生涯父と名乗ることなく修業を続け、この世を去りました。

 この物語は、仏教説話にある八苦の一つ「愛別離苦」のお話です。中世に高野聖によって全国に広められ、浄瑠璃・歌舞伎・文楽・能の題材にもなっています。前半の舞台は太宰府であり物語の特に重要な部分を担っています。

物語に関わる文化遺産
 太宰府市国分の通称「宝満隠し」という丘の西側に稲子地蔵があります。
 繁氏の身代わりとなって命を落とした侍女・稲子を祀ったという話や、宝満山の山伏に恋をした稲子の話など、様々な謂われがあります。

全国に見られる物語ゆかりの地
 物語後半の舞台である和歌山県には苅萱道心と石堂丸が修行に励んだ高野山苅萱堂や石堂丸の母を弔ったとされる学文路苅萱堂があります。また、長野県には苅萱道心が葬られた苅萱塚がある往生寺や二人が作ったとされる親子地蔵が伝わる西光寺があります。各地で伝承活動が行われています。

地元での伝承活動
 かるかや物語はかつて水城尋常高等小学校の『郷土読本』(昭和12年発行)に掲載され、子どもたちに教えられていました。
 また、水城小学校の学芸会の定番の劇として講堂で度々演じられたほか、昭和30年(1955)には、旧太宰府町と水城村の合併記念として、水城小学校の生徒によって「石堂丸」が太宰府天満宮の文書館で演じられています。
 以後も小学校で演じられていましたが、いつしか物語の演劇は行われなくなりました。