第7号「隈麿公(くままろこう)のお墓」


育成団体:榎文化保存会(えのきぶんかほぞんかい)

 太宰府市朱雀3丁目に所在する隈麿公の墓(奥都城)は、菅原道真の息子・隈麿の墓です。
 隈麿公の物語と、墓を守ってきた榎の住民の物語を伝えていきます。

隈麿の墓(奥都城、おくつき)の由来
 昌泰4年(901)1月、右大臣(うだいじん)だった菅原道真(すがわらのみちざね)は、左大臣(さだいじん)藤原時平(ふじわらのときひら)の謀略(ぼうりゃく)によって都から大宰府へ左遷(させん)されました。この時道真は、まだ幼かった紅姫(べにひめ)と隈麿の二人の子を連れてきたといわれています。十分な食事もままならない苦しい生活の末、隈麿は大宰府に来た翌年の秋、病のために亡くなってしまいます。道真は息子を失った悲しみを、漢詩「秋夜」(しゅうや)の中に詠っています。

秋夜
床頭展転夜深更
背壁微燈夢不成
早雁寒蛬聞一種
唯無童子読書声
 童子小男幼字
 近曾夭亡
    【菅家後集】

【現代意訳】
  秋の夜
寝床で 寝返りを打つだけで
  夜は更けてゆく
壁には淡いともしびが揺らぎ
    夢をみることもできない
時期より早い雁と季節外れのコオロギが
    鳴く声は聞こえるが
息子が読書する声だけが聞こえない
童子とは息子の幼名の通称
この子は最近早死にした

 隈麿の墓と伝えられるものが、榎区の納骨堂の敷地内にあります。昔から、墓のかたわらには六弁の花をつける梅の木が植えられていました。また、墓に供えられた榊(サカキ)が枯れると誰かが新しい榊を供えるというように、永い間、榎区の住民たちによって世話が続けられてきました。
 明治初期の『福岡縣地理全誌』(ふくおかけんちりぜんし)には「隈麿墓 村ノ西南一町餘。圃中ニアリ。自然石ヲ立テリ。長七八尺許。梅樹アリ。其所ノ字ヲ総テ。隈ノ前ト云。(中略)。配所ニ到リ幾ナラスシテ薨ス。時ニ。此ニ埋葬スト云。」と記されています。

隈麿の墓と菊武夫婦
 菊武賢太郎(きくたけけんたろう)さん・トリさん夫婦は、隈麿の墓の隣地に住んでいる縁から、隈麿の墓の世話をするようになりました。昭和60年(1985)には、賢太郎さんが自費で墓のまわりの玉垣(たまがき)をつくり変え、それに合わせて太宰府天満宮が墓に覆屋(おおいや)を建てました。この時、太宰府天満宮から賢太郎さんに感謝状が贈られました。
 平成3年(1991)に賢太郎さんが亡くなられてからは、妻のトリさんが隈麿の墓の世話を続けてきました。毎日欠かすことなくお墓の周囲を掃除し、榊がしおれてくると庭の榊を取って新しく供えています。庭の榊の木は賢太郎さんが隈麿の墓に供える榊を得るために植えたもので、今では3mを超える高さになっています。

六弁(ろくべん)の梅
 六弁の花びらを付けるこの梅は、かつて幹がひと抱えあるほどの大木で、枝も大きく広げていました。初夏には一斗五升(いっとごしょう、約27ℓ)の梅の実が採れ、その実を榎区が入札(にゅうさつ)を行い、区の収入としていました。しかし、老木だった梅は昭和30年代に枯れてしまいます。そこで、菊武賢太郎さんは、自分の畑に育っていたその梅の種から芽生えた梅を、墓の横に植えなおしました。それが、現在の六弁の梅です。先代に比べると六弁の花びらは少なくなりましたが、2月初旬頃には隈麿の墓を覆うように、きれいな花を咲かせます。現在菊武トリさんの畑には、今の六弁の梅の種から芽生えた梅が育っています。