認定太宰府市民遺産

第6号「太宰府における時の記念日の行事」


育成団体:辰山会(ときやまかい)

大正10年に全国ではじまった「時」の大切さを知らせる「時の記念日」。多くの地域で忘れられつつある行事が、太宰府では都府楼跡を舞台に、毎年6月10日の時の記念日に今も行われています。
「時」の大切さとともに、行事を引き継いできた先人たちの物語を伝えます。

『時の記念日』と行事のはじまり
 大正9年(1920)に東京天文台と生活改善同盟会が「時を守り、欧米並みの生活改善・合理化を図ろう」という主旨のもと、6月10日を「時の記念日」と定め、大正10年(1921)から全国で記念行事が始められました。
 6月10日としたのは、『日本書紀』に天智10年(671)旧暦4月25日(新暦6月10日)に「漏刻を新しき台に置く。はじめて候時を打つ。鐘鼓を動す。はじめて漏刻を用いる」と記すように、天智天皇が近江大津宮(滋賀県)で初めて漏刻(水時計)を造られたことを記念して定められたものです。
 太宰府でも奈良時代に漏刻が置かれたと伝えられる「辰山(月山)」を望む都府楼跡で記念式典が行われました。大正10年6月11日、福岡日日新聞朝刊の記事には、「天智天皇の漏刻を据え付けられし、とき山の前面なる都府楼跡にて挙行さる。」と都府楼跡に集合する意味が記されています。
 その後、昭和12年に作成された『郷土読本(中)』(水城尋常高等小学校刊)にも「第五 時の記念日」として記され、子どもの視点から、時計を持たずに支会(集落)ごとに、午前5時ちょうどを目ざし都府楼跡に集合する「時の記念日」の行事内容が記されています。
かつての時の記念日の行事のようす
そこでは皆集合した後に、時を計ること知ることの大切さと天智天皇が築いた漏刻のある辰山(ときやま)を臨む都府楼跡で式典を行う意味について語られています。また、午前5時に集合する際に覚えた緊張感や、わずかの差で3等になったが、やっと入賞することができた喜びも語られています。

大宰府の漏刻
 大宰府の漏刻については、『続日本紀』に宝亀5年(774)「大宰既有漏刻(大宰府に既に漏刻がある)」とあり、延喜式(927年)には「凡大宰及陸奥国漏守辰丁各六人(大宰府と陸奥国の漏刻番は各6人)」と記され、奈良時代から漏刻が存在していたことが分かります。
 江戸時代に記された『太宰府旧蹟全図北図』(1806年)には、政庁東の丘を「時山」と記し、『筑前国続風土記拾遺』には「東の岡を築山といふ。むかしの漏刻樓を置れし所にして辰山といひしを訛りて築山といへり。」と記され、漏刻が政庁東の丘にあったと推定しています。

行事のながれ
行事の内容は、時代によって、変わっているようで、平成元年(1989)に再開された直後は、料理を準備し、さながら宴会のような盛り上がりがあったそうです。現在は簡略化されていますが、以下のような30分前後の行事となっています。

1.集合時間前に当番で準備を行う
世話人等が挨拶し、本行事の歴史と時を計り知ることの大切さを語る

2.決められた時間に集まる
近年は午前6時10分ちょうどを目途に集合していますが、時代によってまちまちで、大正10年は午前11時、昭和12年は午前5時と午前7時、昭和39年は午前8時という記録があります。
昔は支会(集落)ごとに集まっており、正殿で到着の報告を行った時刻が到着時刻とされました。事前に練習する支会もあれば、政庁周辺に隠れて時間を調整する支会もあったようです。なかには先生に隠れて時計を持った生徒もいたりと子どもなりに知恵を絞って集合していたようです。

3.城戸満(筑山)先生書の掛け軸2幅を都府楼跡正殿の石碑に掛ける。

4.ピタリ賞の賞品授与

5.全員で水城小学校校歌などを合唱
現在は水城小学校校歌、時の記念日の歌、度量衡の歌などを参集者全員で合唱します。

6.吟詠など参集者が出し物を行う

7.参集者で懇談し解散
時間ぴったりに集合すると賞品が授与されていますが、昔は1~3等までの表彰を行うだけでした。

行事のようす